あと5年で死ぬとして

後腹膜平滑筋肉腫の外科治療後、肝臓に遠隔転移した33歳のつれづれ。

がんセンターへ

今日はセカンドオピニオンを訊きに、はじめて築地のがんセンターへ。予約の際に肝臓の手術をする予定があって急いでおり、と伝えてしまったがために肝胆膵外科の先生との面談になってしまたことに正直不安を感じていた。希少がんの先生ではないの?同じ外科の先生では薬物治療が良いかどうか結局答えが返ってこないのでは?が!実際、担当してくださった先生はとても良かった。

まず受付時点で問診票で何をききたいか、今かかっている病院ではどのように説明を受けているか、といったことを記入する。聞き漏らしがないように、できるだけ具体的に書いた。そもそも外科手術の有効性はあるのか。あるとしたらそれはどんな手術で予後には薬物治療などが控えているのか。外科手術が有効でないとはどういう状態なのか。薬物治療の選択肢はあるのか。その場合の相談先はどこになるのか。抗がん剤以外にも免疫チェックポイント阻害薬の選択肢もあるのか。今後の見通しは。

事前に書けたことは安心感があってよかった。それを面談が始まってから見るのか、その前に確認してくれるのかはわからなかったが、セカンドオピニオンの説明によると、診断データの確認から申し送りの記入まで含めて一時間、というのが決まりだった。実際は先生は10分弱前?くらいには外来の部屋に来てくださり、そこで目を通してから、私の病気の本来の専門(後腹膜科)の先生に話を通し、確認してから呼んでくれたようだった。

まず、こちらが何も言う前から、丁寧に画像検査の結果と病気のことを一から順に説明してくださった。もともとの病院で説明は都度受けていたが、これほどにわかりやすく、かつ画像の見方を押さえて教えていただいたのは初めてのことだったので、その時点で好感度は俄然上がった。これはいつの検査画像でそこから何がわかるか。この病理診断に書かれていること。腫瘍のグレードとは。あなたのグレード、ステージは(今の転移の状態と今後さらなる再発の可能性)。この場合の対処の順序。今後治療をするなら専門の科はどこで誰が担当するか。同じことを検査別の資料で何度も繰り返しわかるように伝えてくれたし、薬物治療をがんセンターで行う場合の外来の予約は自分に電話をくれと言ってくれた。

わかりやすかったためにほとんど聞き返すことはなかった。結論は、悪性度は中より高く、再発の可能性が高いので、今の状態で手術をしてもあまり意味がない。外科手術の前に化学療法を行い、一定期間これ以上の転移がなければ外科手術を行うのが良いとのこと。納得のいく答えであった。(ーーーそしていよいよ、5年生存率が頭をよぎってくる!)

その場で後腹膜科の外来の予約を取りたかったが、セカンドオピニオンの場でそれはできないとのこと。一度持ち帰り、明日でも明後日でも、自分宛に電話をくれれば来週の外来で担当と話ができるようにしてくれるとのことだった。ここでひとつ旦那から、急ぐ必要はないのか?と質問があった。

三月になかったものが七月にみつかり、ひとつは2センチほどになっている。もちろん早いに越したことはないが、一日二日で容体が急変するという段階でもない。まずは現在かかっている病院とも話をつけてから来週の外来に来るのがベストだろう。明後日現在の担当医と話すと言うことであればその後の電話で問題ない。その日は自分は手術に入っているが、電話は別の誰かが対応できるし折り返しになるかもしれないが、来週の外来で見れることは今確認できているので問題ない。

安心感がすごい!全ての受け答えがしっかりしている。言っちゃなんだが、今までの担当医の先生は、いつも説明が「劇的」で「ふわっとしている」のだ。

あなたのがんはすごく希少でこの大学病院でも症例が少ない!難しい病気だ!(←具体的な症例や悪性度の指標の話はない)

僕が今急いでかけあって検査予約入れたから!紹介状を用意したから!(←それが仕事)

手術の日程は七月のCTの時点で僕が予め押さえていた!(←先に言っておいてくれない?)

急いでセカンドオピニオンをきいて来て、無理と言われたら手術予定のこと言っていいから!それでも無理なら僕が直接掛け合うから言ってくれ!(←先に言っておいてくれてたら急がず聞きに行けたのでは?)

そもそもこんなうがった見方をしてしまっているのにも一応前談があるのだ。手術前のときの先生の言葉である。

非常に難しい手術である。でも僕は(術中命を)落としたことがないので!(←手術前の患者家族に落とすって言葉つかうか?)

変な話地方の病院では手に負えなかったかもしれない。ここに来たことはラッキーだった(←完全にまるごと要らないというか言っちゃいけない台詞)

麻酔もベテランで経験の多い麻酔科医がつき、外科部長もチームにはいる。病院をあげての手術だ!(←最後の一言が恩着せがましい)


すべて、本人はなんの自覚もないのだろうということはわかる。根っからこういう物言いの人なのだ。これを処世術として育って来ているのだ。悪い人ではないのだ、ろうけれど。相容れなさがすごい。


ただの愚痴になってしまった。


外科手術で済まない状況になるほど、完治の道はないということは実感している。もちろん抗がん剤か免疫療法でこれ以上の再発を防げれば外科手術の選択肢がまたできるわけだが。旦那も少しずつ、覚悟をしていかないとという認識を持ったようだった。

病院の待ち時間

今日は先週までに行った精密検査の診断を聞きに行く日だった。予約は13:30〜14:00。家族と来てくださいとのことだったので夫に午後休をとってもらい、一緒に13:30に病院に到着。待つこと一時間。14:30頃呼ばれて説明をきく。

MRIを行った結果としては、小さいものを含めて四つ腫瘍がある。うち二つはPET検査でも反応が出ておりがんで間違いがなく、おそらく残り二つの小さいものも同種の癌である。

CTで確認されていた大きなものだけであれば外科手術で取れば良い話だったが、そうもいかなくなった。そもそもこの短期間で複数、バラバラに出現しており、外科手術でとったところで、その後も再発が予見される。そうなると化学療法の方が有効的という判断もあり得る。

もともとあなたのがんは希少がんで、この大学病院ですら例が少ない。投薬をするにもこの病院では不十分かもしれず、希少がんだけを専門にしている病院の紹介も視野に入れて検討したい。うちにも希少がんを扱う腫瘍内科はあるのでまずはそこの外来を受けて相談し、内科の先生と僕(外科の先生)で相談し、またご家族を含めて相談したい。金曜はあいてるか?


…まだ何も決まらんのかい!


一時間待たされ、内科の受診次第ですと言われたのだった。今日家族を呼んだ意味はあっただろうか?内科の先生に先につないでおいてもらえないのだろうか?

同じ病院といえど科が違えば紹介状やら何やらが必要なのだろう。その前に患者とのコミュニケーションの必要があり、そもそも外来で来て初めて検査結果の診察というものが始まるのだろう。そうでなければ、毎度一時間待たされる理由がわからない。10分ほどの診察…というか面談後、内科の外来、検査予約を用意するということで一時間待たされ、病院を出たのは16時前だった。(ちなみに会計は240円だった。)


夫に合わせて昼食を食べずに病院に行ってしまったので、夕方フードコートでの軽食となり、その後買い物のために色々とスーパーをはしごして、帰ったときには軽い熱中症でダウンした。何の成果もなさがすごい。


医者や看護師には毎回必ず、仕事はどうですか、と聞かれる。どう、とは?

毎回、フリーランスなので時間の自由は効きやすいということは伝えるのだが、そもそも何を聞かれているのか?何を伝えたいのか?

むしろこちらが聞きたい。いつまで仕事できますか?何がどうなったら仕事ができない状況になりますか?

しかしこの質問に答えはないことを知っている。要するに外科の範疇を超えているのでこの先のことは答えられないってことをさっき長たらしく言われたから。

仕事よりイベントを大事に生きてるので、イベントと重ならなければなんでもいいんですけどね!仕事は?と聞かれるとイベントのことは答えないので、予定のことを聞かれているのであればそのように言って欲しい。明日も来てくださいと言ったら来られそうですか?とか、そういう聞き方をしてほしい。

毎回必ず仕事は?と聞かれるので、毎回返答に困る。初めてかかったときから自宅で短納期の請負の仕事をしていて時間で働いてはいないのだが。納期まで全て潰れるようなことがなければ仕事は成立するのだが。どこまで詳しく聞きたいのか?何を知りたいのか?毎回サラリーマンだと思われているのか?

忙しいときは、長い待合の間に仕事もできるので通院に全く困ってはいないが、この無駄なやりとりは、なくしてほしい。


悪性腫瘍の再発に間違いはなかったので、両親には初めて再発のこと、現状わかっていることを話した。電話をして、まずは父の容体を確認し(父は可もなく不可もなくという状況だった)、自分のことを告げたのだが。告げた瞬間の両親のひどくがっかりした声には、少し心が痛んだ。正直寝耳に水なところがあったのだと思う。外科手術が予想以上にうまくいき綺麗に取れたので完治したと思っていたし。数ヶ月に一度CTを撮っていることは知っていたが、油断はしていただろう。化学療法には父の方が詳しいので調べたそうにしていて、病名を改めて聞かれたので教えはしたが、素人が調べても有効な抗がん剤や免疫阻害薬は明記されていないし、生存確率なんかを見てこれ以上落ち込むことにはなってほしくないなと思う。

自分が死ぬこと自体に大した苦しさは覚えない。だが家族が、若くして死ぬ悲しさ、死んでしまうかもしれない不安を与えてしまうことは正直しんどいものがある。自分にとっての救いは自分が死ぬ側でよかった、ということだが。


今日は熱中症で夜早い時間に一時間ほど寝てしまったこと、カツカレーを調子に乗って食べすぎたことで、3時過ぎまで寝れなかった。頭が痛いのも暗闇に携帯をいじっているから治らない。この辺で今日の駄文もいい加減にしようと思う。

満腹

コロナワクチンの2回目を終えた。副反応はなかなかに辛くて、ほとんど出したことがない38度以上の熱が1日続いた。起きても眉間のあたりが重くぼーっとしてしまい、気がついたらまた眠っていて、赤ん坊や猫のように短い睡眠を繰り返した。巷で言われている重めの副反応そのもので、摂取から約34時間後、ふっと辛さから抜けた。もちろんそのあと辛さは残っていないのだが。明らかにまた食べられる量が減ってしまった。健常なときには食べ切っていた量の半分で、苦しいほど満腹になる。いつも注文する寿司は10巻たいらげていたが、6巻食べればその晩寝つけないほど苦しい。なかなか胃から先に進んでいないように思う。お腹が空かないわけではないのだが、一度に入る量が減った。

大したことないといえばそうなのだが、前回このような状態が続いて胃痛に我慢できなくなったときには、1日でも早く手術が必要と言われるほどに後腹膜腫瘍が膨れ上がっていたのだった。ほんの数日、夕飯の量が入らなくなっただけだが、これは健常の範囲なのだろうか。気にしなくていいかもしれないことも、腫瘍のせいだと勘繰ってしまう。胃痛も少しではあるが、感じる頻度が増えてきている。


昨日今日で、入江亜希の北北西に曇と行けという漫画を読んだ。アイスランドが舞台で、地球規模の大自然が素晴らしい絵とともに描かれている。アイスランドに行きたい。そして入江亜希の画力が欲しい。

1番したいことは気心の知れた現地の友人に運転してもらってドライブすることだが、残念ながら友人もいなければ英語すら話せず、免許もないうえ電車で酔えるほどに乗り物に弱い。歌もダンスもできないし、酒も飲めない、体力も力も注意力も度胸もない。…何も持ってないなあ。でも多少の絵心と料理ができるので、一緒に楽しむことはできる。と思っている。

この低い天井の狭い部屋で一生を終えてしまうのは、あまりにもったいないと思う。吹き抜ける風を、見渡す限りの視界を、遮るものが何もない場所。自分の力では明日も生きていけない環境。そこに立つ心許なさを、一度は経験するべきではないだろうか。


猫を肩に乗せて、澄んだ空気を吸えたらどんなに幸せだろう。あまりの幸せに、想像だけで涙が出てしまう。旅行は大好きだけれど、そこに猫がいないのは、すごく寂しい。5年しか生きられないのならどこか遠くへ行きたい気持ちもあるが、私の腕におさまってしまう命を思うと、できる限り長く、そばに感じていたい。

確率の無意味

また眠れない。昼間寝てしまったせい。転移がわかってから、実は夜よく眠れない。それでこのブログを始めたわけだけど。


今日も無駄に自分の病気を調べてしまった。そしてその都度、無駄に知ることになる確率。日本では、2人に1人は癌になるらしい。そのうち自分と同じ後腹膜原発は0.2%、そのうち平滑筋肉腫は8%、完全切除できたひとの5年生存率は53%。局所再発は36〜53%、遠隔転移29%とのこと。今回肝に影とのことなので遠隔転移というやつ。50%のうちの0.2%のうちの8%のうちの29%はさて、約何人に1人でしょうか?

検索すると数はさほど多くないが、いくつか読める資料が出てくる。だいたいで予後不良などと書かれており、総じて5年生存率20〜30%と評される。自分はその多数側な気がしてきてこんなタイトルのブログを書き始めた。頭の中でぐるぐる考えても眠れなくなる一方で、だったら少しでも吐き出してすっきりしたらいいのかな、と。まだ単純CTで肝に影があったことしかわかっていないので、転移かどうかはもう少し先の診断(家族と来てくださいと言われている)まで明らかにならないのだが。

先週今週と造影剤CT、MRI、PET検査というものを体験した。すでにこの三つの検査で五万円かかっている。入っときゃ良かった癌保険とはよく言ったもので医療保険癌保険なんて要らないでしょと思っていたのだった。どんな確率だろうとなるときはなる。ならないときはならない。死ぬときは死ぬ。父が癌になった時に家族全員で入っておくべきだったかもね。


そんなわけでなにも結果が出ていないし、どんなにスマホで調べて考えたってわかりっこないのだが。ネットに上がっている癌センターの親切な説明や学術論文に、自分の病気のことを言葉を変えて何度も説明してもらっている。そして漠然と、このあとするかもしれない肝臓の手術や入院、そのあとに続く検査、再発、化学療法の末の数年先の死を想像している。確率は無意味だとわかっていても、何%かという情報を、何度もさらってしまう。


前回は開腹手術だったのだが。肝は位置や大きさによっては腹腔鏡手術の可能性もあるとのことだった。術後の入院期間は丸2週間だったが、正直、めちゃくちゃ辛かった。実は一人で反芻すると涙が出てしまう。人にはネタとして話せるのだが。時間が経つにつれ細部を忘れ「つらい」という感情だけが残されている。そのために、次の入院がすごく嫌なものだと感じてしまう。つらい、できればしたくない。しなきゃ、そのうちに死ぬんだろうけど。今特別な痛みや自覚症状はなく、既往歴がなければ絶対に気づいていないだろう。それなのに、手術、必要なんですかね?


入院のことを考えると鬱になってしまうのでなるべく考えないようにしよう。どうせ、1週間後の診断までは何を考えても全て無駄なことだ。父が不安な状態ということもあり、夫とにしか肝臓のことは伝えていない。ときに言いたい病を発症するけど、我慢しようね、あと1週間。家族のように、ときには家族以上に、なんでも話せる兄弟のような友がいるのだけど、その子には最初の診断のあとすぐに連絡した。それができるだけでもかなり救われている。


もう3時をすぎているのでいい加減に寝る努力をしようと思う。明日は脱毛(VIO)の予約がある。実は先月から通い始めたのだが。それをしようと思ったのもかなり突然な衝動だった。入院のことを思い出し、もう恥ずかしがることもないしこの先もない方が衛生的にいいだろうと、急に決意したのだった。本能的にまた入院が近いとわかっていたのか?(仮に転移だとしてすぐ手術できるわけでもないと思うが)手術の予約はなかなか取れないものだとよく聞く。

股の毛が多少すっきりした状態なら、すこしは入院生活も快適だろうか。

未練と後悔

この集めたアイドルグッズ、ハンドクラフトの道具たち、さまざまな紙や布や刺繍糸。版画の道具だって今年に入って揃えたのに。捨てちゃうのはあまりにも惜しいではないか。この惜しい気持ちが未練というやつ?


ものづくりを趣味としていたから、モノに対しての執着が強い。裏を返せば捨てられない病なのだが。何年も前の洋服も捨てられない。だって今見てもかわいいし。紙袋や厚紙、梱包材、ふとみつけたリボン、イラストの参考になりそうなポストカード 、シール、ワッペン…  もともとそういう要らないけどかわいいものを買ってしまう悪癖があるのに、アイドルやゲームのオタクであったから尚たちが悪かった。


「推しっぽい」は迷わず買ってしまう禁断の言葉である。あわよくばこの推しグッズたちは、同じ推しの人にかわいがってもらいたいが、そこまでを死後に頼むことはできないので、余命いよいよとなったら自ら処分先を決めようと思う。ものづくりの細々した道具もおなじく有志の友に生かしてもらいたいものだ。


漫画や本などは妹に渡したい。実家にまだ多少のスペースがあるだろうから、ひとまずはそこに置いておこうか。なにせ旦那に頼んでも彼は人嫌いが進んでいるのでとりあわないだろう。私が死んだあとに、私の実家と交流が続くともあまり思えない。今の家に住み続けるなら、生活費のたしに保険金の半分は旦那に渡そうかな。いや、1/3でいいか。でも家賃は私の口座から引き落とされているので、というか契約者が私なので、死んだ場合ってどうなるんだろう。

いよいよとなったらその辺も調べないといけないな。


残りの額は母、叔父、妹に。実家もなかなかの古さで雨漏りがすごいから、もう修理ではなく手放してしまえばいい。実家は、父の希望で母の実家をラーメン屋ができるように立て直したものだ。父が肺を患って今は休業している。

父はこの間、最後の望みの薬を投与した。その前日に実家に赴いたが、その場で次の確定申告や休業手当申請のレクチャーをされた。私はフリーランスなので毎年確定申告をするのだが、あまりにも入力作業が嫌いで友人や妹に対価を支払ってしてもらっている。そんな自分に全く知らない店の帳簿から申請まで任されてもな…。レクチャーの間に「ママは全然知らないの?」と何度か聞いたが、ママは全く一切知らないらしい。コンピュータが扱えないというより学ぶ気がないのだ…。


そんなこんなで父がもしこの数年で亡くなったらいよいよパート勤めの母、叔父、無職の妹だけになる。良くも悪くもひとりで完結している旦那と違って心許ないったらない。


我が家は最初こそバブルの残り香があったものの、ほとんどは経済的にずっと苦しかった。借金は膨らみ続けた一方で店は立ち行かなくなり、父はバブル期勤めていたころの知り合いのツテで再就職して単身名古屋までとんだ。癌を発症したのはその時だった。


もう定年間際のおじさんが新しい職場で馴染めることもなかったのだろう。かなり、ストレスも溜まっていたようだった。当時は私も会社勤めでたまたま名古屋に出張があったので単身赴任の父と名古屋で落ち合うことにした。一年もたっていない頃だったと思うが、それでも久々に顔を見たときには、内心かなり驚いた。ものすごく老けていたから。それまでは客が来なくても客商売、毎日自分の決めたルールで自分の店をまっとうしていたのが、突然サラリーマン男一人暮らし。このときに、なんとか自分が援助してでもお店に戻してあげることができていたら、もしかしたら癌の発症はなかったのではなかろうか。人生の中で大きな後悔のひとつではある。

はじめに

何から考えたら良いのだろう。

今年買ったお気に入りのオーク材のキャビネット1番上がガラス張になっていて中のディスプレイが見える。これは捨てないでほしい。18万円くらいのものだけど、それ以上にかわいいと思う。横広で、大きな紙もおらずに入るし、使い勝手が良い。脚が華奢で長く伸びているので大きさの割に軽やかに見える。絶対かわいいので、可愛さのわかる人に、愛用してもらいたい。けして旦那ではない。


旦那には、はっきり、日々の恨みがある。あと5年で死ぬとしてもそんなに申し訳なくならないのは、その恨みのおかげかもしれない。いつもこちらを配慮してくれるような、あるいは私に合わせてしまうような、優しくて自己主張の少ない夫であったなら、死ぬのが申し訳なくて辛かっただろう。正直、旦那には、ザマァ見ろと言う気がしないでもない。


猫は私に懐いているから最初は待ってるかもしれない。でも猫は自由なので、そのうち慣れるだろう。もちろん死ぬまで責任をもつつもりでうちにきてもらったけど、実際猫の死に耐えられる気がしないので、自分が先に逝けたらラッキーかな。5年後、猫はまだ10歳だから、猫の老いもそこまで感じないままいられるだろう。




「老いほど、残酷なものは、ないと、実感いたします


前回の入院の時、同室にお嬢様言葉で話されるおばあさんがいた。すごくゆっくり、やさしく、丁寧に話される。大学病院だからか、入院している高齢の方の身の回りのお世話やお話相手として、研修の学生さんらしき子たちが1日何時間か来る。よく晴れて風の通る日、窓際からおばあさんと学生さんの声が聴こえた。おばあさんはニベアを毎日塗っているらしい。それを手伝ってもらっているようだった。おばあさんはニベアの缶のデザインが素敵ねと褒めたあと、学生さんの瑞々しさを讃えた。そのあとの言葉だった。


心が締め付けられてしまった。声や会話の反応からするに、八十過ぎだろうか。わたしはこのとき三十二歳だった。あと五十年。徐々に徐々に衰えていく身体、肌、ときには病気や怪我、身近な死、生活、生活、生活。これらを五十年続けた先の病床。陽を浴びて風に吹かれる学生は、どれほど眩しく見えたのだろう。あらゆる人生の苦楽を乗り越えてきたであろううえで、老いほど残酷なものはないと。いつもより明るく光って揺れるカーテン越しに感傷に浸ったことを、今でも覚えている。